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理事長随感

理事長随感2020年末〜2021年始号

マスメディアとネットニュース~ジャーナリズムが自ら招いている危機~

ここ十年ばかり、新聞であれ、テレビであれ、個々のマスコミ毎の政治的な主張や立場が、紙面や番組の作り方に、より一層、露骨に表現されるようになって来たと感じる。少し前までは、多少なりとも政治的中立性の「仮面」か「お化粧」くらいはしていたように思うが、今やそういった「タガ」が外れ、それぞれのマスコミ毎の政治的な傾斜をより先鋭化させている。

結果的に、読者や視聴者はマスメディアの報道とは「そういうモノだ」と認識するようになり、それならば、ということで、自分の政治的な性向に合ったような記事を載せているメディアを自由に選択し、自分の気に入った記事しか読まなくなり、また、そういう記事しか読まないことで、右にせよ左にせよ、読者自身も次第にその立場が先鋭化して、お互いに「ネトウヨ」、「パヨク」と罵り合う。同時に、読者や視聴者は新聞紙という紙媒体やテレビの画面を離れ、より選択の自由度と幅が広いネットという世界に不可逆的に移行していっている。

新聞の購読者数は徐々に、しかし確実に減っている。「テレビ離れ」も深く静かに進行中である。若者はテレビの画面を見るよりは、スマホの画面を見る時間の方が圧倒的に長い。このような一連の「危機」に関し、筆者は失礼ながら、マスメディアを担う人々に対する同情心はない。なぜなら、その原因の半分は、技術の発展に伴う自然な「世の流れ」であり、残りの半分は、そのような方向に舵を切った彼ら自身の選択の結果だからである。

出来事の事実だけを羅列したのでは記事にならない。その「事」の意味や背景といった「補強材」を使って一種の「構築物」を作って初めて記事が成立するのだ、とは昔から言われてきた「記者の心得」の第一歩とのこと。そのプロセスで、記事を書く人の個人的な信条や見解を全く入れずに排除することなど不可能である。

そもそも、どの事実を採り上げるのかから始まって、背景説明や見通しに至るまで、記者の主観的要素の影響は避けられない。これはテレビの報道番組の構成でもそのまま当てはまる。

同時に、多くの読者や視聴者を長期にわたって引き付け、影響力を保ち続けるためには、主観的要素を可能な限り排除して、中立的な「外観」の維持を心がけるべきだろうが、世論を「正しい方向に誘導する」のがジャーナリストの使命とばかりに、記事や報道に「角度」を付け、主観的な感想を述べたり、何をニュースとするかを決める自由、言い換えれば「報道しない自由」を駆使しまくって「独自色」を強めたりした結果、「マス」メディアであることを自ら放棄してしまったように思える。

では、ネットによるニュースの取得で問題はないかというとそういうわけにもいかない。ネット空間には、記事の占める場所、面積や活字の大きさで通常表現される「重要度の指標」が一切ない。何が重要と考えるかは読者に任されているので、各自が重要と考える事項だけをクリックして追いかける結果、世論は両極端化し、かつ先鋭化していく。また、ネットのニュース欄に、そもそもどの事項をニュースとして掲載するかの選択が極めて重要になってくる。例えば、あるネット配信事業者のニュース欄は、一時、特定の極端な政治的主張をすることで知られているタブロイド紙の記事を頻繁に掲載していたが、このような決定を、誰が、どのようなプロセスで行っているのだろうか。

今日、実際に世論形成に最も力を持っている人は、大手新聞社の論説委員でも、テレビのワイドショーのメインキャスターでもなく、ネットニュースの管理者、より具体的に言えば、「何をネットニュースに掲載するかを決める人」であろう。その人は名前も判らず、目に見えず、それ故、批判を受けることもない。その人には多分「ジャーナリスト」という自覚もないであろう。「本来の」ジャーナリスト達に、自らの政治的信条を、いったん横に置いて、客観的で公平・中立な記事や番組を作ろうとする矜持を復活させて貰いたいものだ。

(国際安心安全協会理事長・佐伯英隆)

 

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